森永乳業事件 あれから52年
森永乳業徳島工場が製造した缶入り粉ミルク(代用乳)「森永ドライミルク」の添加物・第二燐酸ソーダ中に不純物としてヒ素が含まれており、
これを飲んだ1万数千名もの乳児がヒ素中毒になり、死亡者も出た。1955年当初は奇病扱いされたが、岡山大学医学部で森永乳業製の粉ミルクが原因であることを突き止めた。
実際には森永乳業が1953年頃(昭和28年)から乳製品の溶解度を高めるために、当時は明らかではなかったにしろ、有毒の砒素化合物を粉ミルクに添加していた。
森永乳業製の粉ミルクの購入には医師の処方箋が必要であった。
1955年8月24日、岡山県を通じて当時の厚生省(現厚生労働省)に報告がなされ事件として発覚することとなる。
1956年当時の厚生省の発表によると、ヒ素の摂取による中毒症状(神経障害、臓器障害など)が出た被害者の数は、12,344人で、うち死亡者130名と言われているが、当時は障害を隠す傾向が強かったこともあり、これ以上の患者が発生したことは確実である。
また、認められた患者についても消費者の権利が確立されていない時期でもあり、満足の行く救済措置がされない患者は多かった。
患者は、現在も脳性麻痺、知的発達障害、てんかん、脳波異常、精神疾患等の重複障害に苦しみ、手足の動かない身体をかがめ、皿に注がれたお茶を舐めるように飲むなどの日常を強いられている。また、就職差別や結婚差別を受けたり、施設に封じ込められたりした被害者や、ミルクを飲ませた自責の念で、今なお精神的に苦しんでいる被害者の親らも多い。
なお、森永側が原因をミルク中のヒ素化合物と認めたのは、発生から15年経過した1970年の裁判中のことである。
その際、森永側は、第二燐酸ソーダの納入業者を信用していたので、自分たちに注意義務はないと主張していた。
しかし後に、国鉄仙台鉄道管理局がボイラー用の「洗剤」として、森永と同様、日本軽金属が生成した第二燐酸ソーダを使っていたにもかかわらず、使用前の品質検査
でヒ素を検出し返品していた事実が明らかとなった。
「食品」としての品質検査が必要ないと主張していた森永の態度は厳しく指弾され、1960年代には、森永製品のボイコット運動が発生した。
当時、森永は乳製品の売り上げでは明治乳業、雪印乳業をしのぐ企業であったが、裁判が長期化したこともありイメージダウンは拭いきれずシェアを大きく落とした。
一審は森永側全員無罪というものだったが、検察側が上訴。刑事裁判は1973年まで続くが、判決は森永側の責任を認めるもので、元製造課長が実刑判決を受けた。
一審の判決が衝撃的だったため、被害者側は民事訴訟を断念。のちに後遺症問題が明らかとなるが、その際も森永側は長らく因果関係に疑問を投げかけていた。
最終的に、被害者、厚生省、森永乳業の話し合いにより、1974年、財団法人ひかり協会が作られ、被害者を恒久的に救済し続けている。
このとき、被害者側で支援活動をしていたのが、当時弁護士だった中坊公平である。
彼はこの事件に関わるまでは、地位が安定している企業の顧問弁護士で一生を過ごそうかと考えていたが、父親の一喝で、関わることになる。


