ジャイアント馬場 アポ・・
ジャイアント馬場・・好きだったな・・
1974年、ジャック・ブリスコを破って、当時世界で最も権威があるとされたNWA世界ヘビー級王座をアジア人として初めて獲得。
1980年、ザ・シークを相手に通算3000試合目を達成。デビューから丸20年目だった(記者から後に知らされ、「最初から分かっていれば、まともな相手を選んでいた」とコメント)。
1984年、ハンセン・ブロディ組のツープラトン・パイルドライバーで首を痛めて次の試合を欠場、デビュー以来3000試合以上続いた連続無欠場記録がストップ。
1985年、スタン・ハンセンに敗北し、PWFヘビー級王座から転落したのをきっかけにタイトル戦線から退く。以後は社長業やタレント業に比重を移しながらも前座としてリングに上がり続けた。
最後にリングに上がった1998年12月5日までで、通算5769試合を行った。
1999年1月31日、東京医大病院にて、大腸癌(上行結腸腺癌)の肝転移による肝不全により死去。
一切外部には命が危ないことを漏らしておらず、最期を看取ったのも妻の馬場元子、姪の馬場幸子、お世話係の和田京平と仲田龍の4人だけであった。
このことは、三沢光晴やジョー樋口にさえ知らせていない。これは妻・元子の意向である。戒名は「顕峰院法正日剛大居士」。
4月17日に日本武道館でファン葬が催され、3万8000人が参加した。


